ファッションと戦想――服から考える幸せ by吉村恵美
突然ですが、普段みなさんはどういった想いで毎日身にまとう服を選んでいますか?
その日の天気や気温だったり、訪れる場所のTPOを考えたり、または、その日会うであろう人のことを想い、服を選ぶ人もいると思います。例えば、同性の友人と会う場合は流行を取り入れておしゃれに見えるように工夫したり、恋人と会う場合は相手の好みに合わせた服の系統を少なからず意識する人も多いと思います。
私は、「服」にはただ身体にまとうという機能だけではない、目には見えない大きな力があると思っています。
これは毎日の私の体験なのですが、自分に似合っているかなと感じられる服を着たり、お気に入りの服を着たり、心地の良い服を着ると、それだけで自分に少し自信が持てて、背筋がピンと張って、その余裕から他人にも優しく接することができて、穏やかな波動が自分から周りに伝わっていくような気がします。そして、その日1日が服によって幸せに感じられるということさえあります。
また逆に、「今日のコーディネートは失敗したなぁ」という日や心地の良くない服を着てしまったと感じる日は、何だか自分に自信がなくなって早く家に帰りたくなったりして、少し憂鬱な1日になってしまいます。
みなさんにもこんな経験はありませんか?
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日本を代表する世界的に有名なデザイナー川久保玲さんは、自身のブランド「コムデギャルソン」の2015年SSメンズコレクションで、“anti war”=「反戦」をテーマに掲げて発表を行ないました。
「テーマはアンチ・ウオー(反戦)。私は服で何かを積極的に発信することは好きじゃない。でも今回はやることにした。ただし、静かに」と川久保さんは語っています(上間常正、「コムデギャルソンが掲げた反戦の意味」、朝日新聞デジタル、2015年11月30日)。
http://www.asahi.com/and_w/fashion/SDI2014072516411.html
私たちは川久保玲さんのような影響力のあるデザイナーではないし、毎日の服選びに反戦や平和への想いを巡らし、その想いを服に込めたり、託したりしているかといったら、それは少し大げさなことかもしれません。しかし、服の持つ力は私たちが考えている以上にとても大きくて、ひょっとしたら世界をも変えられる、そのくらいの力があるとさえ思っているのです。
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昨年の11月、パリでIS(イスラム国)による大規模なテロがありました。多くの罪のない人々が亡くなり、世界中が悲しみに暮れ、各地から被害にあった方々へ哀悼の意が表されました。
そんなテロを起こした人たちがもちろん許せない一方で、私にはある1つの考えが浮かびました。
テロリストと言われている人々のなかには、本田先生の講義でも教わったように、就職の自由が制限されていて、低賃金で、皆の嫌がる仕事をせざるを得ないという、グローバリゼーションの負の側面に苦しんでいるところを、ISなどによってリクルートされ、戦闘員として従事させられ、やむを得ずテロリストになってしまうという背景もあります。
そんな背景を持ったテロリストたちに、このテロを起こす前日にでも、彼ら自身のお気に入りのアーティストのCDを買うことができて、その曲のメロディーと歌詞にゆっくりと耳を傾けることのできる環境があったとしたら……。
そして、もし今までの彼らにはなかった服を選ぶ余裕と自由が与えられ、彼らがいつも着ている身も心も重たい戦闘服を脱ぎ捨てて、それぞれの「幸せとしての服」を身にまとい、パリのおしゃれな街を子供たちと軽やかに歩くことができたとしたら……。
そもそも服には、本来、身体を暑さや寒さなどといった外界から守ったり、身体を覆い隠すといった、世界中の70億の人皆に共通する「生存のための服」としての役割が根本にあります。
しかし、服の役割はそれだけにはとどまりません。自身の好みや環境に合った色や形、素材、着心地などを自由に選んで着ることができたら誰だってその方が嬉しいはずです。日々の生活に心地良さと潤い、小さな幸せをもたらしてくれる「生活のための服」としての魅力が服にはあるのです。
さらに、生存や生活のための服から少し離れた、時間やお金、対人関係の余裕があってこそ感じられる、良い意味での贅沢な幸せ、非日常体験としての服、あるいは「あの人に見せたい、好きな人を魅せたい」と他者を想ったコミュニケーションとしての服、すなわち「悦びのための服」があると思います。
そして、服の最大の魅力は、自分の子供がお洒落をして悦ぶ笑顔を見たいという大人たちの無償の愛や好きな人にプレゼントする時にはどの服が似合うか、どんな表情で悦んでくれるだろうかと想像したりするような純粋な愛、すなわち自分の着るものではなく、他者を想い、その他者が身にまとう服を想うという「無上の愛としての服」があると思います。
人それぞれに感じる幸せや向かうところの個人差はもちろんあると思います。しかし、何か特別に高価なものや、ブランドの服を選べて買える、着られる自由というよりも、複数の色のなかから好みの色を選べたり、自分の身体に合うシルエットの服が選べたり、心地よい素材の服を選ぶことができるという、ささやかだけれど、とても幸せな自由、そうした個々人に合った自由があることこそが大切なのではないかと思います。ただ「身体にまとうだけの服」「生存のための服」ではなく、「生活のための服」「悦びのための服」「無上の愛としての服」をも選べる自由があるということの素晴らしさを今一度見つめ直したいと思います。
テロリストだって私たちと同じ人間です。忙しい日々の生活のことをひと時でも忘れて、お気に入りの音楽を聴けたり、何かしらの想いを巡らし、その想いを込めた服を心地良く着ることができたなら、その日1日がささやかながらも、素直に「今日は、何だか幸せだったなぁ」と感じるはずです。このような何気ない幸せな1日を過ごせたら、その翌日にあらかじめ準備されていたテロ計画があったとしても、ふと家族のことを思い出し、自分がこれからしようとしていることに対して躊躇したり、葛藤があったり、戸惑いを覚えるきっかけになるかもしれません。
少し考えが単純かもしれません。しかし、これが服を通じたファッションや音楽などが持つ力だと私は思います。
もちろんファッションや音楽だけではなく、映画、アニメーション、マンガなどにも、時に国家や政治などの現実の力を超えて人々の心を動かすことのできる、芸術文化の力があると言えます。
多くの人々が、自分にとって身近で興味のあるそれぞれの分野で芸術文化の力を借りながら、現代に起こる様々な問題や戦争について目を向けて、少しでも想いを巡らせることができれば、今とは異なる新しい視点から平和について考えることができるきっかけになるのではないかと思います。
誰もが川久保玲さんや世界的に有名なデザイナーのように、服を通して広く発信すること、大きな幸せを与えることは難しいかもしれません。
しかし、世界中の誰もが毎日身にまとう「服」は、誰にとっても欠かせない日常の必需品だからこそ、選択の自由があって、自分に似合う服を着たり、肌触りや心地の良い、自分自身が優しい気持ちになれる服を着ることができれば、きっと誰もがささやかな幸福を感じるでしょう。
また、その日着る服を通して、その服に視線を送ってくれる他者のことを想う人も多いと思います。服を着ることで何も感じない、想わない人はいないと思うのです。少なからず誰もが何かを感じ、何かを想い、日々服と共に過ごしています。
「服はそれを着ている人間を語ってくれる鏡です」と日本の有名なデザイナー三宅一生さんがおっしゃっていますが、本当にその通りで、「幸せとしての服」としてその服の魅力を最大限に引き出すには、その「服」とそれを着る「人」の存在がとても大切だと私は思います。(三宅一生展『TEN SEN MEN』P.22より引用)
「服」の存在はあくまで脇役であり、主役はそれをどう扱うか、どう着るかの「人間」に託されていると思うのです。人間的な心の豊かさが欠け、中身が追い付かずに、「服」ばかりがひとり歩きしていても、その人から惹かれるものはきっとないと思います。
「服」と「人」が織り合わさり、重なり合った瞬間にこそ、放たれる魅力。その一瞬に感じるたたずまい、目には見えない不可視なもの、けれど絶対に存在する「服」と「人」によるその確かな魅力を「きらきらオーラ」と私は呼びたいと思います。
服を着るときに感じる小さな想いや幸せ、服と人が共存してこそ放たれる「きらきらオーラ」の魅力を、多くの人が今よりもっと大切にできたら、その小さな幸せときらきらが世界中に広がって、憎悪やテロだって今より少なくなる、そんな世界になるかもしれません。綺麗事や理想論では終わらせず、そういうことに大きな希望を持ちたいと私は思います。
一方で、現在のリアルな現実に目を向けると、様々な要因からこうした「きらきらオーラ」の魅力や芸術文化の力を受け取ることができない人々も世界には多くいます。私もこの記事を書くにあたって、これらのことを受容できるということは、当たり前のことではないということにはじめて気付かされました。
さきほども触れたように、テロの背景にあるひとつの大きな問題として、グローバリゼーションによる世界的な貧富の格差があります。低賃金労働や違法な児童労働、不当な長時間労働など、現実社会の問題はまだまだ山積みです。これらの問題を改善していくことで、最貧困層といわれる人たちの生活水準を向上させ、日々の生活に金銭的かつ精神的な余裕を生んでいくことが求められています。同時に、世界のすべての人々が「幸せとしての服」を享受できるような社会にするためには、前述したような課題を解決できる国連やユニセフ、国家の政治や経済など現実の力による取り組みが必要不可欠であります。そのためにも、服と人が放つ「きらきらオーラ」の魅力や芸術文化の力の限りない可能性を信じ、希望を持ちつつ、同時に、現実にもしっかりと目を向けて、大学人として学んでいくこと、思考していくことを大切にしたいと実感しています。
いつか現実の力と、服と人による「きらきらオーラ」の魅力がうまく結びついて、誰もがただ「身体にまとう日常の必需品としての服」ではなく、それぞれの「幸せとしての服」として服を着ることをできるようになれば、小さな幸せから大きな幸せが生まれる、それが世界中に広がっていく、そんな世界になればいいなと私は思います。
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