ブラ坂田 坂田が勝手にぶらり旅@沖縄 by坂田優里

みなさんこんにちは。

ラボ生の坂田優里です。

本田先生に旅人ではなく真の(?)と言われるほどの旅好きを活かし、ブラタモリならぬブラ坂田、ぶらり旅行記書かせてもらいます! ちなみに本編にも出てきますのでそちらもよろしくお願いします。

今回私が行ってきたのは沖縄県にある慶良間諸島の島々です。12月に入り寒い日が続くなか、今更沖縄の記事かよ!と言われてしまいそうですが……。ここでそんな寒さをも吹き飛ばす写真を1枚!

(さむ……!!!)

これは先ほど紹介した慶良間諸島のうちの1つ、渡嘉敷島というところで撮影したものです。昨年、国立記念公園に指定されたので名前を知っている方もいらっしゃるかもしれませんね。私は一昨年もこの島を訪れているのですが、2年前とは比べものにならないほど観光客が増えていて驚きました。やはり観光業において、このように何かに指定されるというのはとても重要なことなんですね。(個人的には、人が増えていて少しがっかりしました。せっかくの憩いの場が……。)

さて、なぜ突然慶良間諸島をご紹介したかというと、じつはここは第二次世界大戦当時、大混乱に陥った場所の1つなのです。

今回私が訪れたのは、この渡嘉敷島とその隣の阿嘉島というところです。どちらも慶良間諸島に属し、沖縄本島からほど近い場所に位置します。この「本島から近い」ということが原因でこれらの島々には悲劇が起きました。

昭和20年3月、沖縄への上陸を決めた米軍は本島上陸に先駆け、まずこの慶良間諸島に上陸することを考えました。そして同じく日本軍も、本島へ攻め込む米軍を背後から攻撃する目的で、本部を阿嘉島とし慶良間諸島にも軍を置くことを決めました。

同月26日、米軍は阿嘉島への攻撃を開始。翌27日には渡嘉敷島への攻撃を開始し、その日のうちに渡嘉敷島の南側、現在の阿波連ビーチより上陸することに成功したのです。これが米軍初の上陸とされています。

(じつは先ほどの写真、この阿波連ビーチでした。)

このとき、島民は混乱に陥りながらも、本土からやってきた日本軍は自分たちを守るために派遣されたのだと信じ、彼らを頼りにしていました。しかし本当は、沖縄本島への攻撃を邪魔するために派遣されていたのです。つまり、島の人たちの命のことはあまり考えられていなかったのです。もしくは、それを考える余裕が彼らにはなかったのでしょう。

その例としてこんな話が残っています。「日本軍を頼りに軍の拠点が置かれる丘(小さな島なので島全体が小さな山のようになっており、集落はその南と北に分かれています)の上に作られた豪へ逃げてきた島民たちを追い返した」というエピソードです。さらにこのあと、日本軍の司令により集団自決を強いられるのですが、その裏には日本軍の食料確保という目的があったと唱える人もいます。(曽野綾子(1973)『ある神話の背景 : 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』より)

これは、私自身が戦争体験者にお話を伺えた訳ではないので事実かどうかはわかりません。また、お話ししてくれた方も「義理の父から聞いたことがあるだけで本当のことはわからない。ただ私が聞いたことがあるということは、日本軍が実際に口には出さなかったとしても、そう思わせるような言動があったのだと思う」とおっしゃっていました。

こんなこともあってなのか、この島に住む人のなかには米軍よりも日本軍の方がキライという人もいるといいます。

(阿嘉島の港にある記念碑です)

普段、私たちがメディアを通して目にする沖縄の姿というのは、主に沖縄本島の話です。しかし、本来はそれぞれの島にそれぞれの歴史や苦しみ、思いがあるのです。今回たまたま訪れた渡嘉敷島と阿嘉島にもこんな歴史があるのですから、まだまだ明かされていない事実はたくさんあるのでしょう。

また、これは第二次世界大戦における話だけではありません。現在話題になっている基地問題や尖閣諸島問題もその1つです。メディアを通した情報だけでは彼らの思いを理解することは到底できないのだと、痛感させられるお話でした。

さて、少し暗い話になってしまいましたが、そんな歴史をもつ慶良間諸島、今では絶好の観光スポットです! 夏に海水浴はもちろん、冬にはホエールウォッチングなどもできます。海に潜ればウミガメやニモにもしょっちゅう出会えます。よく、「死ぬまでに1度は見たい風景」などと謳われた本に海外の海の写真が載っていますが、まったく引けを取りません! 秘境の地とはまさにこのこと、と言っても過言ではありません。私もついついこの地を訪れると、仕事や学校のことを忘れ、携帯電話の電源を切りたくなってしまいます。みなさんもぜひ、頑張った自分へのご褒美!と思ったときに訪れてみてくださいね。

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